2022.8.24

気になる映画リストを手紙で送ったらすぐにこれを観にいきませんか、とお返事がくる。火曜日に「来週の日曜日はどうですか」と書かれた手紙が届いたので、書いた時間がいつかによって「来週の日曜日」がいつになるか変わる。いまはほぼタイムラグがなく連絡が取れる手段があるからいいけれど、むかしのひとはこんなことでうまく待ち合わせできなかったかもしれない、とあたたかい気持ちになった。お手紙でのやり取りなのに、すぐに一緒に映画を観に行けることになって嬉しい。

 

某フェスでの差別のことを目にしてしまい、辟易する。literally吐きそうになってしまった、ハーブティーをすぐに淹れられる生活をしていてよかった。ほんとうに誰かが作った作品とそのひと自身は切り離すべきなのだろうか。切り離して考えられるのだろうか。じぶんの享受している作品を作った人間が誰かを無意識に差別していたり意識的に差別的な行動を取っていたとき、作品に触れるときにそのひとのしている差別行為が頭に浮かんでこないなんてことがあるのだろうか、気にかからないなんてことがあるのだろうか、そんなことがあるのだとしたら、差別について考えたことがあるのだろうか、ある視点から見て奇異と見做されるものが原因で傷付けられることを許せてしまうのだろうか、その人間は、その人間の作品に興味のないひとからしたらただ差別をする人間であるという事実を、どう受け止めるの?

 

Twitterでは建設的な議論なんでできない。消耗するだけ。勇気や少しの安心を得るにはいいかもしれない。助けられることもある。でもちゃんと入ってから情報をじぶんでコントロールしないと、ただ、自分が消耗してしまう。

 

 

というのを数日前に書いた。すぐに外に出してしまわないと後から恥ずかしくなるね。

 

 

 

会社の隣の席の上司は男性だけれど、こわいと思わず接することができるくらいにはやわらかいひとで、ほんとうによかったと思うし、勝手に感謝している、あなたが上司でよかったですと。ちょうど2ヶ月前のいまごろ、会社で、落ち着いて仕事ができなかった。好きなアーティストのミソジニーとその指摘に対する態度に傷付けられたなんて話して理解してくれるひとは会社にいないかもしれないと思っていたけれど、なぜかそのひとには話すことができ、伝わり切らなかったながらに一緒に怒ってくれて気が楽になった。じぶんの妻のこと「奥さん」ていうひとだけど。

 

 

にじさんじのひとの活動休止動画を聞いたときも色々考えた。直接関わりのない誰かを好きになることは救いにもなるけれど危ないことでもある。相手に知らないあいだに理想を押し付けたり、押し付けてしまってもいいと錯覚してしまうから。

好かれる側にも色々あるのだなと思った。純粋に売り出しているところだけで見てほしいひともいれば、どんなことも受け入れてくれる"ファン"を盾にするひとも。

 

 

手に入れた本について載せるのはかんたんだけれど、読んだ本についてを載せるのはむずかしい。

 

 

ZINEにはたしかに好きなことやものなどをたくさん載せたけれど、それは、かたちに残るところで、誰の目に、いつ溜まってもわたしが消耗しないものだけです。人生でいちばん好きだったもの/ことがひとつだけあり、それだけは、「おすすめする」ような文脈では言葉にして好きな理由など誰かに語ったりしないし語れもしないでしょう。安心してください

 

 

 

ゴールデンウィークの真ん中。たったひとバンドの40分間のためだなんてばかげているかな、と思いつつフェスに行く。40分間のためだけに行った甲斐があったと感じる。どれだけその音楽に救われてきたかを思い知らされる。周りに誰もいなくてたったひとりで辛いことを乗り越えなくてはいけないとき頼れるのがindigo la Endの音楽だけだったこと、どれだけ心の支えになったかなんて誰にもわかるわけがない。あのときのわたしには川谷絵音の声だけが生きがいだった。フェスでビールを飲むという夢を叶える。腕と脚は40分ごとに塗り直し紫外線から守り切ったのに、顔にマスク焼けを作ってしまう。終わってからもしばらくindigo la Endを観た幸福感が抜けない、わたしは、彼らの音楽を聴くために生き続ける。

たった数ヶ月前のじぶんのことばを読んで、かわいそうになる