アケルマン / フェス(2022.4.28〜2022.5.5)

2022年のゴールデンウィークの記録。

 

1日目。ずっと雨なのでずっと家にいる。映画のチケットを取らなくて正解だった。米粉のスコーンを焼いて『トムボーイ』を観る。ミカエルとジャンヌ以外みんな死んでしまえと心の底から思った、ミカエルの身に起こる全てが容赦なく、わたしは絶望してしまった。身勝手な母親がいちばん嫌い。あんな人間は子どもを産んだらいけないと思う。他人を傷つけることへの想像力を持てない年齢の子どもも好きじゃない、でもたぶんこれは幼いころにじぶんがたくさん周りの人を傷つけた記憶があるから。すべての人間がいやになってしまって映画のあとずっと泣いた、同居人が困り果ててじぶんでも涙の止まらなさに困り果てるほど泣いた。悲しかった

 

中日の何日かで渋谷のヒュートラに通う。アケルマンを4本。アケルマンが映画で作る鬱の感じがすごくわかる。砂糖を(わたしの場合は砂糖ではなくゼリーや桃)貪って貪ってそれ以外食べる気力もなくて、というかそれ以外の食べ物の存在を忘れて、食べ続けて、こぼして、あってないような気力を片付けに当て尽くしてしまうあの感じ。ひたすら留守電を流すアンナのように、何も心にないまま同じ動作を繰り返すあの感じ。椅子にかけたまま何十分でも同じ格好でい続けながらぐるぐる同じことについて考えながら、時々考えが脱線してしまいじぶんの思考におかしさが込み上げ、でもそこで第二のじぶんが現れ冷静さを取り戻し自己嫌悪にまみれてしまうあの感じ。わたしだ。なにもできないときのわたしだ。

 

わたしはわたしのうつの感覚しかわからないし、ほかの人とも話したことがないので、あれはもしかしたらうつのひと共通の感覚なのかもしれない。それでもなぜか「わたしのそれだ」と思わせる力があるのは、どこか江國香織の小説に似ていると思う。

 

『〜ジャンヌ・ディエルマン』の最後の長回しは、あの表情の移り変わりがすごく自然なものに思えた、アテレコしながら観ていた。3時間とちょっと、『ドライブ・マイ・カー』を観たときのあっという間な感覚はもちろんなく、リヴェットを観ているときの間伸びするような感覚もなく、必要な時間の経過がそこにあったのだと思う。映画が、あれより短くても長くても、何かが損なわれてしまうだろう。

 

 

ゴールデンウィークの真ん中。たったひとバンドの40分間のためだなんてばかげているかな、と思いつつフェスに行く。40分間のためだけに行った甲斐があったと感じる。どれだけその音楽に救われてきたかを思い知らされる。周りに誰もいなくてたったひとりで辛いことを乗り越えなくてはいけないとき頼れるのがindigo la Endの音楽だけだったこと、どれだけ心の支えになったかなんて誰にもわかるわけがない。あのときのわたしには川谷絵音の声だけが生きがいだった。フェスでビールを飲むという夢を叶える。腕と脚は40分ごとに塗り直し紫外線から守り切ったのに、顔にマスク焼けを作ってしまう。終わってからもしばらくindigo la Endを観た幸福感が抜けない、わたしは、彼らの音楽を聴くために生き続ける。