桃太郎的日本の無慈悲な侵略への批判

桃太郎的日本の無慈悲な侵略への批判

 

序論

 本論では、芥川版「桃太郎」を題材とし、語り手に感じる不安定さや、「桃太郎」のストーリーをすでに読み手が、知っているものとして語られることへの違和感がこの作品に埋め込まれていることによる意図や効果を明らかにする。

 ジェラール・ジュネット「物語のディスクール」で示される批評理論のなかでも、「Ⅰ.時間」から「順序」「持続」、「Ⅱ.叙法」から「パースペクティヴ」、「Ⅲ.態」から「語りの水準」[1]を用い、分析する。

  この作品は物語の時間や「物語言説」を巧妙に操ることで、語り手の立ち位置を意図的に曖昧にしている。しかしそのような中でも、〈一〉[2]や〈六〉などの特徴的な場面から、「桃太郎」の世界をすべて知った何者かが語り手であることは読み取れるようにつくられている。読み手の世界線をも侵食する語り手は、その不安定さを持ちつつ、読み手に何かを訴える。その訴えとは、「桃太郎」を用いた、日本による韓国侵略の批判なのである。

 

第1章 ジェラール・ジュネット「物語のディスクール」について

 「物語のディスクール」は、フランスの文学理論研究者ジェラール・ジュネットが1972年に、マルセル・プルースト失われた時を求めて』を分析する際に記された批評理論である。

 「物語のディスクール」で用いられている理論は、物語には「物語内容」「物語言説」「物語行為」の三つの「相」があるとする。「物語内容」とは名前の通り物語の内容、つまりどのような出来事が描かれているかを指す。「物語言説」はどのように語れるか、あえて言うのであれば文章そのもののことと言えるだろう。「物語行為」は語り手の存在やそのものや存在する時間や所在を指す。

 なかでも「Ⅰ.時間」と「Ⅱ.叙法」は「物語言説」と「物語内容」のあいだに存在する作用を、「Ⅲ.態」は「物語行為」と、「物語言説」「物語内容」それぞれのあいだにある作用を指す。以下、本論で用いる理論のみ記述していく。

 「Ⅰ.時間」のうち「順序」は、物語の基準を設け、テクストがその基準に対しどのような時間的立ち位置にいるのかについてを示すために用いられる分野である。本稿では「順序」の中でも特に、基準より古い出来事を語る「後説法」、基準より未来の出来事を語る「先説法」はもちろん、それらをさらに細かく、基準の時間をはじめとした「物語内容」の出来事とはまた別の時間軸を語る「外的な後説法」「外的な先説法」や、「物語内容」の時間軸内の出来事を語る「内的な後説法」「内的な先説法」のどちらであるかまで見ていく。さらに、「Ⅰ.時間」のうち「持続」については、描写に代表される「休止法」、物語上の出来事を省略しつつ語る「要約法」の二つに着目する。

 「Ⅱ.叙法」の「パースペクティヴ」については、神的な視点から語られるような「焦点化ゼロ」であるのか、作中人物を語りに用いる「内的焦点化」であるのか、語りがもっぱら作中人物の外面のみを描き、内面に触れないような「外的焦点化」であるのかを明らかにする。

 「Ⅲ.態」からは、語りが物語の基準となる世界に対しどのような位置にいるのかについてを「語りの水準」を基に分析する。

 

第2章 芥川龍之介「桃太郎」作品分析

 

第1節 「Ⅰ.時間」「順序」「持続」を基にした分析

 芥川版「桃太郎」には、「外的な先説法」や「外的な先説法」がみられることが特徴的である。〈一〉、〈六〉がその顕著な例であるため、本節ではこの二つに焦点を当てる。

 この話は、冒頭「むかし、むかし、大むかし、…」から「外的な先説法」だ。初めの二段落はあくまで桃の木の話をしており、桃太郎の話の時間軸とは明らかにずれているからである。

 〈一〉三段落目[3]「むかし、むかし、大むかし、…」からの記述は、桃太郎に関わる実の話をしており、この物語がはじまりここで初めてメインであるはずの桃太郎の話が動き出す。そのため、この点は「後説法」だ。

 〈一〉四段落目「この赤子を孕んだ実は(略)それは今更話すまでもあるまい。」で始まる段落の記述は、これから話す内容を示唆しており、「内的な先説法」と言えるだろう。予告的な語り口である。

 〈六〉一段落目、二行目「しかし未来の天才はまだ……」以降の文章もまた、「桃太郎」の物語に関わらない内容であり、基準の時間軸から異なる。「外的な先説法」と考えてよいだろう。

 このように、芥川版「桃太郎」には、物語の基準軸からずれた時間軸での語りが基準の時間軸の話の前後に挟まれており、さらに「外的な先説法」が用いられていることにより、読み手にとって語り手の所在は曖昧となる。

 続いて「持続」について見ていく。〈一〉一行目「大きいとだけではいい足りないかも知れない。…桃の実を礫に打ったという」は、桃の木についての描写が続く、「休止法」である。ここでは、本来の「桃太郎」のストーリーでは出てくることのない桃の木が、この物語では重要な意味を持つのではないかということが読み取れる。

 〈二〉冒頭「桃から生まれた桃太郎は…」は、生まれてからの成長を描かずに桃太郎が鬼退治を思いつくまでを描かない「要約法」が用いられている。桃太郎の成長についてはさほど重要ではなく、鬼退治以降の物語を強調したかったのであろう。

 このように、「Ⅰ.時間」を用いた分析により、芥川版「桃太郎」では、本来の「桃太郎」からずれた時間軸があることに加え、鬼退治以外の「桃太郎」についての記述が省略されていること、加え付け加えられた桃の木についての詳細な記述が存在することが特色であるとわかる。

 

第2節 「Ⅱ.叙法」「パースペクティヴ」を基にした分析

 次に、「Ⅱ.叙法」のうち「パースペクティヴ」を用い、芥川版「桃太郎」を分析する。

 まず〈一〉を見てみると、作中人物と呼べる作中人物が存在しない。桃の木についての記述が続いており、外的焦点化とも考えられるだろうが、特に桃の木自体に自我があるように描かれているわけではないため、姿を現さない何者かから見た桃の木の様子と考えることが妥当である。すると、〈一〉は「焦点化ゼロ」となる。

 〈二〉以降には、例えば〈二〉一段落目、一行目「思い立った訳はなぜかというと、…」や三行目「その話を聞いた老人夫婦は内心この腕白ものに愛想をつかして…」のように、複数の作中人物の心情が表現されている。一見「多元内的焦点化」のようである。だが、ここで考えるべきであるのは、「焦点化ゼロ」の語り手は「多元内的焦点化」に見せかけた語り方もできるということだ。ここでも〈一〉四段落「それは今更話すまでもあるまい。」や〈五〉冒頭「これだけはもう日本中の子供のとうに知っている話である。」が重要な意味を持つ。桃太郎の物語自体を読者が知っている前提で語り手が話を進めているため、作中人物の心情が彼らに視点を置いたうえで語られているものとは限らない。桃太郎の世界を知り尽くした何者かが心情までをも語っていると考えることも可能である。すると、〈二〉もやはり「焦点化ゼロ」と考えることが可能だ。〈四〉についても、〈二〉と同じように解釈が可能である。

 〈三〉冒頭「鬼ヶ島は絶海の孤島だった。」は一見桃太郎の鬼ヶ島に対する感想だ。しかし、続く「が、世間の思っているように岩山ばかりだったわけではない。」以降、かつての鬼ヶ島についてや別の昔話の鬼についての記述が続く。鬼の心情が語られるわけでもなく、さらに鬼と言っても「桃太郎」に出てくる鬼に限定した話ではなく、物語世界の鬼を広く記述している。このように、〈三〉では、鬼の話だが鬼の視点ではなく、桃太郎の視点でもない何者かの視点が採用されている。〈一〉と同じように〈三〉も「焦点化ゼロ」である。

 〈五〉は〈四〉の視点の特徴を引き継ぎつつ、若干の異色を放ちだす。〈五〉一段落目、二行目「——これだけはもう日本中の子供のとうに知っている話である。」というセリフは物語世界の外の話であり、かつ、今回は物語世界の外が読み手の世界となっている。たった一行ではあるが、これだけで、〈五〉のみならず芥川版「桃太郎」全体が、作中人物ではない、読者の世界のことをも知る物語外の者が視点であると考えることができるのではないか。「焦点化ゼロ」である。

 続く〈六〉は、二行目「しかし未来の天才は…」より、桃の木になる実に潜む天才の話をしており、〈一〉と同様の理由で、「焦点化ゼロ」とする。

 「パースペクティヴ」の観点で見た際も、やはり〈一〉と〈六〉が特徴的である。「外的な先説法」と「焦点化ゼロ」の箇所が一致していることは、物語の基準となる世界を俯瞰しているような何者かが存在し語っていることを、より強固に示す。さらに、〈五〉「——これだけはもう…」に関しては、物語の基準となる時間軸のみならず、基準となる世界線から逸脱し、読み手側の世界にも片足を踏み込んでいるような語り手・視点の存在を読み手に仄めかす。

 

第3節 「Ⅲ.態」「語りの水準」を基にした分析

 「パースペクティヴ」で分析したことを参考にすると、この作品の語り手は「焦点化ゼロ」である。つまり、物語外に語り手がいるということだ。「物語世界外的」ではないかと考えることができる。

 しかし、これまでさんざん言及してきた〈一〉四段落目「——それは今更話すまでもあるまい。…」や〈五〉一段落目「——これはもう日本中の子供のとうに知っている話である。」のように、読み手である私たちありきで語っている。語りが私たちに「桃太郎」を聞かせている、という図が見えると、これは「メタ物語世界的」であることがわかる。「物語世界内の人物によって語られる」とするジュネットの定義に反するが、今回の場合、入れ子の外側が読み手の属する現実世界であるために、物語世界外の人物が語りとなっている。

 芥川版「桃太郎」は、読み手と同じ現実世界に存在する全知の神とも思しき語り手が、我々読み手に問いかけるように、「桃太郎」について語っているのである。

 

第3章 結論

 

 芥川版「桃太郎」を分析した結果、私たちの知る「桃太郎」にはない時間軸が、私たちの知る「桃太郎」の前後で語られることで、語り手の立ち位置が読み手に取って曖昧になっていることが分かった。また特徴的な〈一〉と〈六〉からわかるのは、「桃太郎」の世界をすべて知った何者かが語り手であるということだ。この語り手は、読み手の世界線の存在に語り掛けることで、読み手の世界までを侵食する。語り手が非常に不安定でありながら、読み手に何かを訴えかけようとしているのではないだろうか。ここから、芥川版「桃太郎」が、読み手に何を語ろうとしていたのかを考える。

 この作品は、「先説法」(特に「外的」)や「焦点化ゼロ」を、一般的とされる「後説法」や「内的焦点化」に紛れ込ませることで、通読した際に、一見特別な「物語言説」がないように見せている。もしくは、すべての「物語言説」が通常ではないように見せることができる。このことにより、純粋な「桃太郎」のリメイク、もしくは一風変わった「桃太郎」のリメイク、すなわちフィクションにみせることで、読み手に違和感をそのまま受け入れさせることにより、本当に描きたい何かを隠しているようだ。検閲から逃れようとしたのではないかと考えられる。加えて、鬼征伐に至るまでの物語を「要約」という形を用いることでほぼ描かないのに対し、鬼征伐の箇所には本文でも言及されている「日本中の子供がとうに知っている」桃太郎にはない描写が付け加えられている。鬼征伐を描くために「桃太郎」を選んだのではないだろうか。このことから、桃太郎に例えられる何者かが、鬼に例えられる何者かを侵攻・侵略しているという世の情勢が浮かんでくる。

 芥川による「桃太郎」の初出は1924年7月であり、この時期の出来事を「桃太郎」に隠しこんだと考えるのが妥当であろう。すると、1919年の日清戦争以降、日本が当時の朝鮮の一部を侵攻・侵略していたという歴史的事実が浮かんでくる。日本を桃太郎に例え、侵略される側である朝鮮や中国を鬼に例えていると考えると、芥川版「桃太郎」の不可解な描写にも意味付けをしていくことができる。

 「先説法」や「焦点化ゼロ」の箇所ほど、芥川版「桃太郎」の本当に意図することが描かれていると考えられる。〈一〉で描かれている桃の木は、悪として描かれる桃太郎=日本の大本となる存在として考えることができる。侵略をしたい、服従させたいというような、ネガティブな感情などの概念を形にしたのが桃の木なのではないだろうか。

 〈三〉で敢えて描かれる鬼や鬼が島については、鬼=朝鮮の国土や国民が、すでに素晴らしい状態であったことを示す。〈四〉冒頭「桃太郎はこういう罪のない国に…」にあるように、桃太郎=日本は、自らが攻撃されたわけでもなく、鬼=朝鮮を脅かしたのである。鬼に「わたくしどもはあなた様に何か無礼でも致した為、…」と鬼に訊かれ、「日本一の桃太郎は猿鳥雉の…」という論理的な会話の成り立たぬ返事をしたことも、戦争において、第三者である国同士で戦い、朝鮮の支配権を争うということの意味不明さを批判するためのセリフである。〈五〉はその後の日本がもちろん朝鮮から反発を受けている、という状況を描いている。

 〈六〉では、桃の木の実が尽きることはないと暗示することで、国家の、もしくは人類の、自分ではない何者かを自分の支配下に置こうとする感情がなくなることはないであろうということ、次に戦争や戦勝国による他国の支配が起こるであろうことを嘆いているのだ。

 これらの複線全てを、気が付く人のみが気が付けばよい、という思いが「メタ物語世界的」の「語りの水準」に現れている。日本の朝鮮侵略批判を政府にばれてはいけない。しかし、「桃太郎」に込めた内容が、誰にも気が付かれないのでは、意味がない。そこで、「メタ物語世界的」の入れ込構造を用い、語り手が現実世界に身を置く人間であるという違和感を読み手に持たせることができる。

 このように、芥川版「桃太郎」は巧妙に「物語言説」を操作し読み手を惑わせ、それに惑わされずに物語の本質に気が付くことができる読み手が、「桃太郎」を「日本の韓国侵略」の物語と重ね合わせ、読み手の訴えようとしていることを理解することができる仕組みとなっているのだ。

 

 

[1] 筆者の言葉であるかジュネットの定義した言葉であるかを一目で判別できるようにするため、ジュネットの言葉には鉤括弧を用いることとする。

[2] 本文に一から六でつけられている番号。〈〉を用い示すこととする。

[3] 段落番号は、〈数字〉による区切りごとに数えることとする。一文字下げの部分のみ新たな段落と考え、「」による改行は考慮しない。

 

参考 芥川版「桃太郎」

www.aozora.gr.jp