「体感リアリズム」/ 2021.7.30

リアリズムで、しっかりした描写ではなくて、ぼんやしていくような人たちは、自分から押しつけないような印象がありますよね。だから、世界とかまわりに対して、こうしたらどうですかって提示するんじゃなくて「あ、僕はこうなんで、でもあなたはあなたでいいですよ」みたいな、ある種の放棄があるのかなと思いました。祈りとかヒロイズムとかっていうのもそうで、相手との関係性を放棄して、祈りに行く、もしくは、相手の言うことを聞かずにむちゃくちゃ言う方向に行く、という点では、同一の性質を表しているとも言えますね。ライトに詠っています、みたいな歌が氾濫しているなかで、そういう人たちは、他者との関係性を構築していく積極的なところがないのかなという印象を持っています。

___「対談『このアンソロジーの読みをめぐって』大森静香vs藪内亮輔」『現代短歌 No.86』

 

倉橋由美子文芸賞の講評や応募要項に、大学での怠惰な生活をただ書くだけの作品が多いという評価や注意書きがあるように、やはり、身近なことをことばにするだけでは文芸作品にはならないのではないかと思ってしまうじぶんがどうしてもいる。小説でこれをいうのは真っ当な意見であるように感じるけれど(とはいえさいきんそういう小説が多いことも事実)、短歌は57577というかたちがあるだけで、身近なことをただ書いただけでも作品として扱われてしまっているのではないかと感じることは正直あって、大森静佳と藪内亮輔の対談で言及されていたように、「体感リアリズム」の歌が主流になっていくのならば、わたしは短歌を読むだけのにんげんとして、昔は昔へと遡ってゆくだけになるのかもしれない。

 

というのは、7月17日の下書き。

ここからが、7月30日の日記。

 

富士日記(中)』を読み終える。

ジュリア・クリステヴァ『斬首の光景』を読んでいるけれど、理解が追いつかない自分を情けなく思う。思想哲学系の本は数打つしかないのだろうか、構造的になっているところどころにたくさん触れることでわかるようになるのだろうか、いつかこの本に帰ってきたら、そのときにはわかるようになっているのだろうか。理解できないまま、家に置いてきてしまった下巻の富士日記のことを思う。

 

久しぶりに藤村真理『降っても晴れても』を読む。比呂の気持ちが痛いくらいよくわかって泣いてしまう。でもわたしは比呂みたいに才能があるわけでもないし欲しいもののために自分のなんでも犠牲にできる人間なわけでもないし、凪は人当たりのいい人間ではない。