2021.7.11

ずっと、親密な関係の同性のひとが欲しいと思っていた。どこにでもふたりで行き、なんでもふたりで食べ、なんでもふたりでして、できることならば人生で数日間くらいは、ふたりで部屋に篭って過ごしてみたかった。完璧なふたりの世界。似ているふたりがいいのだと考えていたけれど、それでは飽きてしまうのだろう、だからわたしのことを絶対に認めないひとがいいのかもしれない。わたしのことを認めてくれなくて、でも、一緒にいてくれるひと。松浦理英子の世界みたいに、痛みを伴ってもいいし、むしろ少しくらいの痛みのある方がいいのかもしれない。ここまで執着しているわたしのことだから

 

過去で表すのは、過去の思いだからではなくて、現状から遠いと思っているから? そう思う

 

初めてindigo la Endのファンクラブ先行抽選に外れて呆然としている(比喩ではなく)。わたしが強くindigo la Endを好きなのだと意識したそのライブと同じ会場で行われる予定で、必ず、行きたいのに。

 

夢想・空想・妄想そのものにも増して注意しなければならないのは、それらの異想は生きることに纏わりつく不安や恐怖から、あるいはまた無関心から生まれてくるという事実である。たとえば、実際の海の「水の量感」のことを思いだそうとしても、すぐさまそれは海のなかに住むバイカルアザラシやジュゴンやスナメリに似た、しかしそれら海獣とは違う想像の生物に摩りかわってしまうのだ。このような思考を廻転させつづけている頭脳のなかに、「現実生活」における「先の見し」が開けるはずもなく、そこには「空白」がひろがるしかない。

___解説・菅野昭正(笙野頼子海獣・呼ぶ植物・夢の死体』)