夢とか本の話とか

なぜか面接の時間を間違えていて、カフェでそのまま受けることにしたのだけれど、繋いでみるとWi-Fiがあまりに弱く面接を受けられる状況ではなかった、失敗。家に移動。スタンドデスクで面接を受けていたら父がおもちゃのヘリコプターを飛ばしパソコンの画面に写り込ませようとしてくるので握りつぶす。これも失敗。

という夢を見た。ひとよりよく夢を覚えている自覚はあるのだけれど、体感、精神的に辛いピークを乗り越えた1ヶ月後くらいから時差で心労が夢にあらわれる。それでまたこころがつかれる。

というのは少し前の下書き。ほんとうに心配が夢に出るタイプ。

 

ここにきて初めて対面面接で私服指定をされ、困っている。所謂オフィスカジュアルと呼ばれる服があまり好きではないけれど、リクルートスーツではないスーツを買うお金の余裕もなく、お金の余裕がないから今後着ないような服にお金もかけたくなくて、困っている

 

ここ数日穂村弘の文章を読んだのだけど(『図書館の外は嵐』『短歌ください 明日でイエスは2010才篇』)、彼の文章とはあまり相性が良くないのだなと思った。言語化が粗いというか、表面だけをなぞるというか(これはわたしがじぶんに対してつかったこともあることばで、プロの物書きとじぶんを同じ土俵で考えるのがまず間違えであることはわかった上で、わたしの言語化の物足りなさ行き届かなさに似たものを感じてしまうのだと思う、同族嫌悪?)で、読んでいて新しく得られるものがあまりなかった。木下龍也や大野大嗣ら「短歌ください」出身の歌人たちを穂村弘が見染めたのだとするなら、穂村弘自身を好きではないのも自然なことな気がする。

それに対して最果タヒの書くエッセイの熱量がとても好きで、でも内容としては新しい発見があるわけではなく、ただ文章の書き方や言葉遣いが目新しい感じがして好きなのだろうなと思う。その点で穂村弘が好きではなく最果タヒが好きなのは純粋に好みの問題なのだなと改めて(いやそれ以外に何があると思ったの)。

 

 

さいきん間接照明を手に入れたので、夜、うとうとしながら本を読み、限界になったら寝た姿勢のまま電気を消せるという最強の睡眠導入が可能になったのですが、きのうついに眠さの限界まで本を読んでいたら栞を挟み損ねてしまった。どこまで読んだのかわからない