しんどい世

ずっと、小田急の事件について考えている。

今回の事件自体は、直近で一番大きい犯行動機が「女性店員に万引きを通報されたこと」である限りにおいてフェミサイドであると明言していいのではないかという結論に、きょういちにち考えていて達した。もちろん、男性が非正規雇用であったことも日本社会の生きづらさではあると思うけれど、日本人は女性の方が圧倒的に非正規の割合が高いのは既知の事実であり、ではそれにより女性が男性を憎み殺そうとすることはあるのか? と考えた際に、マスサイド(おそらくmascide(s))という単語が定着していないことからも、少なくともフェミサイドより一般的ではないことがわかる。そうでなくても、わたしはそろそろじぶんがフェミニストであることを自覚し始めていて、そのような自分の信条を大切にして、今回の問題が様々な原因が孕んでいるとして、わたしはそのなかでも「男性が無差別に女性を殺したいと考えた」ことに焦点を当てたい。

痴漢が典型的な例だけれど、街や公共の交通機関などには「痴漢に注意」という言葉が溢れていて、信じられない、どうして痴漢をする人を注意するのではなく、される人への注意喚起になるのだろうか。露出の多い服装をしてはいけないと言われるのも、夜間に無駄に外出してはいけないのも、どうして私たち女が行動を制限されなければならないのだろうか(もちろん被害者が常に女性であるわけではないことも頭において)。もちろん、危険に晒されているのは事実であり、危険を回避するために自ら自衛の行動を取る人にそんなことしなくていいと言いたいわけではなく、ただ、そのような行動の制限がなくても安心して生きていけるように、加害者側に注意喚起をしていく世の中になりませんか。

犯罪について、被害者側に呼びかけをするものは実はほかにもあって、例えば泥棒も加害者ではなく被害者への注意が多い、このことを考えると、痴漢に注意も正当化されてしまうのではないかと思った。ただ、泥棒対策は例えば、家の鍵を頑丈にするだとか、鍵の閉め忘れに注意するだとか、少し行動に気を配れば済むことで、女性が置かれている「常に脅威にさらされている状態」と比べるものではないのではないかとわたしの中では結論が付きました。

 

また、話は少し逸れて、今回のことで改めて昨年の春にSNSで多く目にしたBLMがファッション性の強いものであったのだと実感してしまった。

BLMについての発信をしたこと自体を責めているのではないと前置きさせていただいて、じぶんが実害を受けていない黒人の差別の問題について考えたり発信しようとした人があれだけいたのに、身近な出来事になると何も言わないひとが多く、というか興味のないひとが多く、驚く。わたし自身も人のことは言えなくて、例えばアジア人差別について声を上げたことはなく、これは、わたしが人生のほとんどを日本で過ごし、差別を受けることも差別による実害を感じることもないからなのだと思う。アジア人差別がなくなるに越したことはないと思っているけれど、実際に差別する人の声にぶつかったことがなく、何をどう理解してもらってどうやめて欲しいかを言い表すことはおろか考えることさえできないので、それはもちろん声を上げる行為にはつながらない。

わたしが女性の生きづらさについて何度もこれを上げるのは、わたし自身が女として日本で生きるなかで女だから制限されることが多いことにひどくフラストレーションを感じ、変わってほしい少しでも変えたいと思うからなのです。同じ志向を持つひとの多いコミュニティに属すことに安心感を感じ、感じたこと考えたことを当たり前のようにことばにしていたけれど、ふと周りを見渡すと、ひとりでじたばたしているだけのように見えて、わたしのような人間を嫌だと思うひともいるでしょう、フェミニズムに興味がない女性もいるでしょう、それはそれでよくて、でも、それはそれでいいと思う中で、そのひとがフェミニズムに興味がないのは、わたしがアジア人差別について声を上げないのと同じように実害を感じずに暮らせているからなのか、常に脅威にさらされていることが異常であることに気が付いていないからなのかがわからなくて、でもわたしは何度もこういう考えを押し付けてしまっていて、ひとりで堂々巡り、それか、同じ考えを持つひとに思考をぶつけて、共感してもらって、おわり? でもそれだと、何も変わらないので、こうやって、ひとりでもいいから、女であるだけで生きにくい世の中はやだな、変えたいな、と考える人が、増えればいいなと思うのです。好きなアーティストをおすすめするのと同じ感覚なのだけど、やっぱり押し付けが強すぎるのかもしれないね