夢日記 / 斬首

パーティー会場のような、屋内遊園地のようなところにいる。もうすぐなにかが始まる時間で、映画の前そうであるように、安心のためにお手洗いに行きたい。そのフロアのそれは列ができていて、ほかのフロアに行く。ひとつ上か下の階のお手洗いに入ると、そこはお手洗いではなくて、なかには薄暗く一方通行のエスカレーターがある。一歩踏み出したらエスカレーターの上にいて、もう戻れない。周りには謎のうさぎのキャラクターが光っていて、エスカレーターが終わると、真っ暗な穴に落ちる(アリス?)。穴はどこまでも続いて、そのあたりでわたしは、以前もここに来たことがあることに気がつく。前回のことを思い出して(たぶん)、抵抗のために叫ぶ、とにかく叫ぶ、叫んでもなにも起こらなくて、結局落ちた先にはちゃんとお手洗いがあった。おわり。

 

はたちを越えてから、小さい頃に見た夢に現れた景色をよく見るようになった。クローネンバーグ『危険なメソッド』を見たあとなので、ユングにでも見てもらうか、と思う、フロイトじゃなくてね。たまたまジュリア・クリステヴァが「古くさいフロイトはもはや流行らない」(『斬首の光景』P.148)と言っているページにも出くわした。

 

聖書には、ユーディットが処女であったという記載はまったく見出されないが、ユーディットとアッシリアの将軍との関係が性的なものであったことは明確に述べられている。女性の方が先に誘惑を仕掛けたとされているのだが。それでも、挿入の行為そのもの、さらに処女剥奪は、神経症においては、死刑ではないにせよ、しばしば強姦として体験され、女性の無意識において復讐の欲望を惹きおこすことにかわりはない。分析の臨床においては議論の余地のないこの事実にくわえて、男のほうは性行為において、強い去勢恐怖を感じることを補足しなければならない。膣に入ることで自分の器官を失うのではないかという激しい不安は、処女膜の破裂によって強まり、偶然の懐妊、出産の可能性によってさらに強化される。女性は男のペニスをとらえ、そこから「たった一人で」子供をつくったのではないか? 女性が強姦され、復讐者となり、まさに首を切り落とそうとする処女として生きることがあるのに対し、男性のほうは、幻想のなかで、自分は母親によって去勢=斬首された人間だと感じている。母親は彼からその器官を奪い、もう一人の子供の体という形でしかそれを返してくれないのだ。しかし一方では、女性が出産するとき、母親としての使命のおかげで、一時的とはいえその去勢不安がやわらげられる。子供を産まなかった女性においては、作品の生産がーー見る心きかかジェの生産であればなおさらーーこの脅威を消し去ってくれる。アルテミジア・ジェンティレスキが、女性の作品のもつこの側に明らかにした(図33)。つまり女性は強姦する男の男根的力だけで陵辱された女の受動性とも戦っていることを⋯⋯絵を通してあからさまにしたのである。

___ジュリア・クリステヴァ『斬首の光景』

 

一年前のわたしと違って、哲学上での女性の扱いを見て怒ったりはしない。キェルケゴールを「女を馬鹿にするな!」と言って読めなかったわたしよ…

 

『斬首の光景』で10冊読むまで新しい本を買わないチャレンジが終わるので、次に買う本のことばかり考えている。わたしのことをよく知っているひとに「そういうことをすると、逆に買えることになったときにたくさん買ってしまって意味がなさそう」と言われたのだけど、その通りかもしれない。でもはやく10冊読まなきゃという気持ちになるので、継続的にやるなら意味があるのかもね。わたしは、読書は質も量も必要だと思う。質が大事、と言い切れるひと(例えばTwitterでばっさりした物言いをすることで(わたしのなかで)有名な吉祥寺の某古本屋のひと(Twitterのなかのひとは店主の方?)とか)は、すでにそれなりに量を積んだひとなのだと思う、無意識に。