反出生その2

 川上未映子が今日から冬というので今日から冬というわけ。

相変わらず川上未映子になりたくて、最近は未映子さんの強さとかそう手に入れられるものではないけれど心が折れそうなとき未映子さんはこれくらいでへこまないのでは? と思うとやっていける。

 

この世の誰かを生まれさせるということを考えるたび、私は恐怖でゾッとします……私の肉体が完全になくなりますように! 私の存在の退屈と屈辱を決して誰にもうつしませんように!

___ギュスターヴ・フローベール『The Letters of Gustave Flaubert 1830-1857』

フローベールも反出生主義者だった?

やっとベネターの4章まで読み終えて、私の読みたかったのはここから先なんだろうなという感じがしている。

最初に、性交への関心と親になることへの関心から、子作りへの関心を分けて考えなくてはならない。子作りへの関心は、新しい人間を、つまり自らの遺伝子を受け継いだ子孫を存在させることへの関心である。子作りをしないということは、子作りへの関心を捨てるという代償を払うことで成り立つ。全員が全員そのような関心を持っているわけではないが、それでも非常に多くの人は持っている。

親になることへの関心は子育てをすることへの関心でもあり、また自分が育ててきた(大人になった)子どもとの間に構築された信頼関係への関心でもある。


今生きている大抵の人は自分が存在してしまったことが害悪だとそれほどには思っていないという点が、道徳的判断をする際に重要である、というこである。

___デイヴィッド・ベネター、小島和男・田村宜義訳『生まれてこない方が良かった 存在してしまうことの害悪』

 ベネターの著書のタイトルが誤解を与えるようなものだというのは読み始めてから何度か考えたことで、「生まれてこない方が良かった」というのは主体的な書き方だけれどベネター自身が自分に対して思っていることではないし、主体性をもとに書かれたのではなくとても客観性に富んだ書き物です。また「害悪」というと「周りに迷惑をかけるので私は害悪である」のような考えが浮かんでくるけれど、そういう話でもない。ただそのうえで、ベネターが思っているより自分が存在してしまったことが害悪だと思っている人は多いのではないかと思うけれど。「存在している」ではなくて「存在してしまった」ことが害悪なのだという主張。

人工生殖を非論理的だとする人もいる。そういった人は、子供を授かる好ましい方法はただ一つ、結婚という範囲内で互いに愛し合った結果と現を通しての方法だけだと考えているのだ。こうした考えにおいては、子作りをしようとするカップルは、「結婚していて愛し合っており、自分た他の愛の表現として子作りをしようとするだけでは十分ではない。二人のお互いへの愛情が、性的に表現され、子どもの受胎の直接の原因でなければならないのだ。私にはこの最後の条件がどうすれば適切に主張できるのか分からない。愛の性的な表現についての何が、倫理的に容認できる子作りの必要条件になるほど重要なのか?

小さい子どもを見るとかわいいと思う気持ちはあるのだけれど、この子どもの親はどのような気持ちで子どもをつくることができたのか心底疑問に思ってしまう。子どもを産む行為はエゴイズムなのではないですか。『夏物語』の善百合子も言っていたけれど(そもそもここに共感してベネターを読み始めた)、生まれる子供の人生が幸せか不幸せなのかわからないのに産む選択をすることが私には怖い。親子という関係が他人であるべき人間を他人以上にしてしまうのも怖いし、自分ではない人間の人生に自分の行為がそこまで作用してしまうのも怖い。

子どもは親を選んで生まれてくるという言葉が大嫌いです。

 

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