2022.11.19(『窓辺にて』)

ティナちゃんがわたしのファムファタルなのはわかってたけど今回の役があまりに想像以上にわたしの理想の女の子すぎたのと絶妙に好きな女の子に似ていてやられてしまった。小説家という設定とはいえ、年上の、しかも肩書きがフリーライターというにんげんを目の前にしたら萎縮してしまいそうなのに、ちゃんとじぶんのことばでじぶんの思っていることを口にして会話を進める感じ、なんならじぶんのペースに持っていく感じが好きだった、好きだったというかわたしが高校生のときに心底憧れていて同化したいのかという勢いで真似をしていた女の子がそんな感じだった、そのときの憧れの気持ちを思い出して懐かしくなっちゃった…

稲垣吾郎とティナちゃんの、喫茶店とか公園のやりとり観ていてくすぐったい気持ちとか、思い出して、ひさしぶりにときめいてしまった

もつれた関係の端っこにいるにんげんはメタ的に見たら端っこだけどマクロで見たらまんなかなわけで、そういうにんげんが「勝手に」小説にしてしまうとかそういう着地もなんか好きで、からだを使う喧嘩とかじゃなくて、口からひとにきもちをぶつけるとかじゃなくて、そういう何か作品に落とし込むみたいな着地がよかった。じぶんの好きなひとのほんとうに好きなひとが、じぶんより書く才能があるんじゃないかって嫉妬してしまうから書く、書くけど全然追いつかないみたいな気持ち。読むけど追いつけないみたいな気持ち。わたしは書いても過去にならないかもとティナちゃんに似ている高校生のとき好きだった女の子を思い浮かべながら思った。

作品にするしないで気持ちを測りたくなる立場とかそういうのになんか執着してしまっているんだと思う、というかやっぱりなにかを作り出せるひとに弱いんだと思う、川谷絵音が浮気をしたときも、でもそれで手放せる才能なの? 浮気でそんな才能を手放せるの? と考えていたのを思い出した。まあ他人だからそんなこと思えるわけだけど。

他の今泉監督作品あまり観ていないのでなんとも言えないけど、音楽の入れ方がなんとなく『ドライブ・マイ・カー』を彷彿とさせる感じ。映画の最初の方はワンカットが短くて疲れる気がしていたけど、後半にかけて長回しが増えていくので気がついたら映画の世界に引き込まれてる。思いのほか心地よかったので、もう一度くらい映画館で観てもいいかもしれないなー

2022.11.4

社会人になって、何も考えられなくなってしまったし、考えることを放棄してしまっている気がしている。現に、ブログの更新頻度が落ちていて、読書ノートも全然書いていない。

 

周りからどう思われるかを気にしすぎている気がする。とはいえ、どう思われてもいいと割り切るのもなんだか違う気がする。塩梅が難しい。好きなものは周りの目なんて気にせず好きであればいい。でも苦しいときにいろんなひとに頼ってしまった。けっきょくどこかに寄りかからないと気持ちが安定しないのがだめなのだろうか。

 

中学の友だちと武道館のライブに行く。わたしより楽しんでいたのではないかというくらい楽しかったと何度も伝えてくれて、これからのライブも都合が合えば一緒に行けるような温度感。おなじひとと短期間に何度も会う約束ができるのはうれしい、その方が落ち着くから。家に帰ると落ちつくのと同じ。100人の友達よりひとりのともだちが欲しい。

 

1年前に神保町の、古書店に紛れて存在する新刊を売る詩歌に強いお店で、多和田葉子の『傘の死体とわたしの妻』を見かけた。欲しかったけれど、その日はずっと憧れ続けているひとと数年ぶりにあった日で、なんだかそのひとといるときに買うにしては平凡な本だと思って見送ってしまった。先週神保町でたくさん本を買った日、突然思い出して、ないだろうけどもしあったらいまなら勢いで帰る気がする、と思って見に行ったら残っていた。買った。前回買えなかった話を恋人にしたら笑ってくれた。こうやってブログを書いていたらわたしはその子になれる気がする

 

ライブの帰りに勢いでグッズのピアスを買ったことを後悔はしていないけれど、やはりもう以前のようには熱中できない気がしている。なんだって、こんなふつうに少しずつ好きなものから離れていくのだと思う

7月末のブログにこんなことを書いていた。やっぱりそうなのかもしれない

 

でも花のようなベイビーガールになるにはどうしたらいいのかずっと考えている

2022.8.28

好きなものを突然きらいにならなくてはいけなくなったら、わかりました、きらいになります、と切り替えられるひとはどれくらいいるんだろう。わたしはぜんぜん気持ちの整理ができなくて、2ヶ月以上経ってもまだ引きずっている。

わたしがフェミニズムなんて学んでいなければ、意識していなければ、あんなツイートもしなかったしそもそも歌詞が気になったりあのストーリーに引っかかったりもしなかっただろう、そのまま何の疑問も持たず好きでいられたんだろうな。でもわたしはフェミニズムを学んでしまったし、だからもやっとすることをいくつも見つけてしまって、心底好きなものを、フェミニズムを学ぶ人間としてなんの迷いもなく好きだと言うことはできなくなってしまった。フェミニズムを学ぶ人間というかたちでそのなかに閉じ込められて、それでもそこから手を伸ばしてしまうくらいにはその好きなものが好きだった、フェミニズムなんて学ばなければ嫌いにならなければならないきっかけも生まれなかった。知らなければよかったなにも知らないままで、何も考えないまま好きでいたかった。

誰も助けてくれない、じぶんでじぶんを助けるしかないとき、ひとには頼れないとき、ずっとそばにあった。べつに音楽なんて他にもたくさんあるし、他にも好きなアーティストはいる、探せば似ている音楽だって見つかるんだろうけど、他のアーティストのライブに行くたび、たのしい気持ちと同時に、indigo la Endのライブで感じる高揚や動揺や苦しさや快楽はそこにはないことにも気がついて、途方に暮れていた。

きらいになれるならなりたいけれどなれないし、でも許せないと、正しいことだけ考える心では思っている、いまさら声高に好きだともいえなくなってしまって、わたしは、わたしじしんの思考の渦に囚われて抜け出せない。

2022.8.24

気になる映画リストを手紙で送ったらすぐにこれを観にいきませんか、とお返事がくる。火曜日に「来週の日曜日はどうですか」と書かれた手紙が届いたので、書いた時間がいつかによって「来週の日曜日」がいつになるか変わる。いまはほぼタイムラグがなく連絡が取れる手段があるからいいけれど、むかしのひとはこんなことでうまく待ち合わせできなかったかもしれない、とあたたかい気持ちになった。お手紙でのやり取りなのに、すぐに一緒に映画を観に行けることになって嬉しい。

 

某フェスでの差別のことを目にしてしまい、辟易する。literally吐きそうになってしまった、ハーブティーをすぐに淹れられる生活をしていてよかった。ほんとうに誰かが作った作品とそのひと自身は切り離すべきなのだろうか。切り離して考えられるのだろうか。じぶんの享受している作品を作った人間が誰かを無意識に差別していたり意識的に差別的な行動を取っていたとき、作品に触れるときにそのひとのしている差別行為が頭に浮かんでこないなんてことがあるのだろうか、気にかからないなんてことがあるのだろうか、そんなことがあるのだとしたら、差別について考えたことがあるのだろうか、ある視点から見て奇異と見做されるものが原因で傷付けられることを許せてしまうのだろうか、その人間は、その人間の作品に興味のないひとからしたらただ差別をする人間であるという事実を、どう受け止めるの?

 

Twitterでは建設的な議論なんでできない。消耗するだけ。勇気や少しの安心を得るにはいいかもしれない。助けられることもある。でもちゃんと入ってから情報をじぶんでコントロールしないと、ただ、自分が消耗してしまう。

 

 

というのを数日前に書いた。すぐに外に出してしまわないと後から恥ずかしくなるね。

 

 

 

会社の隣の席の上司は男性だけれど、こわいと思わず接することができるくらいにはやわらかいひとで、ほんとうによかったと思うし、勝手に感謝している、あなたが上司でよかったですと。ちょうど2ヶ月前のいまごろ、会社で、落ち着いて仕事ができなかった。好きなアーティストのミソジニーとその指摘に対する態度に傷付けられたなんて話して理解してくれるひとは会社にいないかもしれないと思っていたけれど、なぜかそのひとには話すことができ、伝わり切らなかったながらに一緒に怒ってくれて気が楽になった。じぶんの妻のこと「奥さん」ていうひとだけど。

 

 

にじさんじのひとの活動休止動画を聞いたときも色々考えた。直接関わりのない誰かを好きになることは救いにもなるけれど危ないことでもある。相手に知らないあいだに理想を押し付けたり、押し付けてしまってもいいと錯覚してしまうから。

好かれる側にも色々あるのだなと思った。純粋に売り出しているところだけで見てほしいひともいれば、どんなことも受け入れてくれる"ファン"を盾にするひとも。

 

 

手に入れた本について載せるのはかんたんだけれど、読んだ本についてを載せるのはむずかしい。

 

 

ZINEにはたしかに好きなことやものなどをたくさん載せたけれど、それは、かたちに残るところで、誰の目に、いつ溜まってもわたしが消耗しないものだけです。人生でいちばん好きだったもの/ことがひとつだけあり、それだけは、「おすすめする」ような文脈では言葉にして好きな理由など誰かに語ったりしないし語れもしないでしょう。安心してください

 

 

 

ゴールデンウィークの真ん中。たったひとバンドの40分間のためだなんてばかげているかな、と思いつつフェスに行く。40分間のためだけに行った甲斐があったと感じる。どれだけその音楽に救われてきたかを思い知らされる。周りに誰もいなくてたったひとりで辛いことを乗り越えなくてはいけないとき頼れるのがindigo la Endの音楽だけだったこと、どれだけ心の支えになったかなんて誰にもわかるわけがない。あのときのわたしには川谷絵音の声だけが生きがいだった。フェスでビールを飲むという夢を叶える。腕と脚は40分ごとに塗り直し紫外線から守り切ったのに、顔にマスク焼けを作ってしまう。終わってからもしばらくindigo la Endを観た幸福感が抜けない、わたしは、彼らの音楽を聴くために生き続ける。

たった数ヶ月前のじぶんのことばを読んで、かわいそうになる

2022.07.28(なつ)

感染症の波がついに(ふたたび?)身近なところまでやってきていて、ついに在宅を申し出てオーケー出してもらえたので今週は久しぶりの在宅。モニターがないので不便。週末に在宅が決まったのでノートとかイヤホンとか会社に置いてきてしまったのもちょっと不便。でもやっぱり在宅だと作業ぎりぎりまで本読んだり昼休みに映画観れたりするのでとてもよい。

きのうはあさいちで大森静佳の第三歌集を頼んで、終業後にはポストに届いていた。今朝はmubiに加入して、『女っ気なし』を観た。さいきんずっと足りていないなと思っていたようなことをできてこころとからだがすごく喜んでいる。たまたま生理ともバッティングしてずっと家にいられるのがありがたい。

ライブの帰りに勢いでグッズのピアスを買ったことを後悔はしていないけれど、やはりもう以前のようには熱中できない気がしている。なんだって、こんなふつうに少しずつ好きなものから離れていくのだと思う

いちにち一缶ネクターを飲んでいる。家の近くのスーパーですごく安く売っているのに、前回買い溜めのために買ってから品切れが続いていて悲しい。ネクターといえば自販機で買うのがなんとなくいいと今まで思っていたけれど(ふと目について飲みたくなるよね)、毎年夏はある特定のものだけを摂り続けたくなるきらいがあって、今年はそれがネクターなので、できるだけ安くたくさん手に入れて手元に置いておきたい。なつを生き抜くためのネクター

2022.7.18

よかった、野音よかった、わたしの負けだと思った、わたしはこのひとたちの音楽を聴くために生きていると思っていたときのきもちとか、ずっと外に出られなくてこのひとたちの音楽だけを生きがいにしていた時期とか、いろいろ思い出して、むりにきらいにならなくていいんじゃないってじぶんのこと許してあげたくなった。許した。そうじゃないとじぶんがいちばんくるしいので。あのひとの抱えるミソジニーを受け入れることもいやなきもちになったのを忘れることもできないだろうけど、それ以上にindigo la Endの音楽から離れる方がむりなのかもしれないと思った。終演後にピアスを買った。わたしは夜風とハヤブサが好きだし心の実が好きだしラッパーの涙が好き、あの音に包まれて感動してしまって、(この時代にあの歌詞はいただけないけど)シベリアの女の子のビートのかわいさが好きだし夜明けの街でサヨナラをのために日々過ごしていたことがあったし抱きしめてよだけを聴き続けてようやく眠れた夜があった、春は溶けてがあったから前を向けたのは数ヶ月前のこと、夜漁りで落ち着いた毎日があり初めての野音でしゃぼんだまと聴いた見せかけのラブソングも忘れたことがないし結び様とともにある初めての野音の記憶もつらかった時期のビジョナリーライブの最後の曲としての記憶も炎とともに残っていて、さよならベルや雫に恋してやチューリップで泣いた日々がいくつもあり、夜の恋はを聴いてようやく落ち着けた夜があって、わたしはほんとうに、ほんとうに、このバンドの音楽が

「解体」(2022.6.18)

久しぶりにはてなブログを開いた。社会人になって3ヶ月目、実務が始まってから毎日が流れるように過ぎていて、わたしはその波に巻き込まれてしまい、自分のペースを掴めていない。気がついたら金曜日になっていて、土日はあっという間に過ぎ、月曜日から鬱々とする暇もなくまた金曜日で、この勢いで人生が終わるような気がしている。こわい、わたしは、わたしの人生がout of controlであるのが心底こわい。

 

直前になって行くと決めた、ゲスの極み乙女の10周年記念ライブに行くべく幕張へ。東京に住んだら千葉も近くて感動した。神奈川にいたころの東京みたいに、躊躇わずに行けてしまう。

このライブの情報が解禁された瞬間のライブ(つまり前回のゲスとindigoの対バンのそれ)にいたのだけど、しばらく申し込む気がなかったのに結局行くことにしたのは、『ベストトラック「丸」』をライブでやらないか期待したから。があまりにも気が狂っていて、楽しくて、ゲスらしくて、好きだったので、これライブでやらないかな、川谷絵音ならやりかねないな、と思ったので申し込んだ(結局やらなかった)。

 

アリーナ3階、ほぼ一番後ろだけどよく見えた。武道館の方が大きいのだね。ゲスのワンマンは初めてだった。ステージにブロック積み上がっていてかわいかった、indigo la Endのライブではそんな装飾ないので、新鮮だった。ライブ中に解体されるものたち。

ありがたいことに、indigo la Endのライブではメンバーを見上げることが多いのだけど、今回はどうがんばってもわたしの方が高いところにいて、新鮮だった。

ステージから伸びる花道があって、川谷絵音がマイクを持って歌いながら歩いていて、近くにいるひとのきもちになって心が震えた(シンプルに羨ましいと言え)。

MVで踊る曲では踊るひとたちがいて、川谷絵音と同じステージに立つのってどんな気持ちかなと考えた。

「人生の針」が、ライブで聴くと全く違う曲だった。わたしはゲスの曲の制作背景とかには詳しくないのだけれど、もしこれがコロナ禍にリモートで作った曲だったのだとしたら、それがよく表れているなと思った。音源と、ライブでやるのと、全く別で、どちらもよかった。実楽器を使ってその場で合わせながら作るのと、パソコンのなかだけで作るのとではまた変わってくるのだろうね。MVの狂気を取り込んだダンスだったのもとてもよかった。いちばんのお気に入り

ずっと張っている曲が多くて、聴くだけでも体力必要だったので、演奏してる側はさぞ疲れたことでしょう…

 

ツアーが発表された。東京は12/3に国際フォーラムで、そんなこと知っていた、ゲスはファンクラブに入っていないので一般先行始まったら申し込む。

前回初めて行った独特な人も情報解禁された。前夜祭は仕事的にいけるかわからないけれど(悲しい)、本公演と併せて申し込んだ。たのしみ