宮沢賢治の描く自己犠牲

今年になって人生初めて授業で輪読というものをしているのだけど、思っていたよりずっとよかった。同じ作品を読んだときに人によって思うことが違うのだなというが徐々にわたしのなかに浸透していく感じがして、楽な気持ちがする。それと同時に、同じ気持ちになるひと、同じ作品を好きだと思えるひとがいるというのはけっこうすごいことなのだなって思えてくる

もちろん物語には作者の意図がしっかりとあるものもあって、それにあまりにもそぐわない読み方をしていたときとか、表面的なところしか見れていなかったじぶんを情けなく思ったりすることはあるのだけど、まあ、それはそれでいっかって。

 

宮沢賢治の作品をふたつ扱った。『グスコーブドリの伝記』と『よだかの星』。どちらの作品も主人公は自死を選んでいて、特にブドリなんかは死にたいように死ねたのでわたしは嬉しい気持ちになって、ああよかったねと思いながら読んだ。残されたネリの気持ちを考えないブドリの死は自分勝手で自己陶酔だという人もいて、でもほんとうにネリがブドリを思うのなら自己犠牲を選んだのはブドリの意思なのだと受け入れて欲しい、と思ってしまうのはまだわたしが死に触れたことがないからなのかもしれなくて、こういうのを話すことってけっこう、その人の人生観とか倫理観とかわかる感じがするので授業のなかで意見するのに勇気が要った。ネリについては、ブドリにとって唯一の心配事であったネリは再会してみると幸せになっていたのでもうこの世に心残りがなくなり、だからネリと再会しなかったらブドリは自己犠牲の道は選ばなかったかもしれないという考えのひともいた。たしかに。宮沢賢治にも妹がいた。

 

よだかは一度も星になりたいなんて言っていなくて、星になりたくて死んだわけではないのだ、ただ死にたくて死にたい一心でそのとき目についた太陽が自分を焼いてくれるかもしれないと思ったらもうそれしか考えられなくなってしまったのだと思う。そしたら太陽が、よだかは夜の生きものなのだから星に頼むべきだと言ったから、よだかは星に話しかけ始めたのであって、死ぬとしても星として残りたいとか、なんらかの形で自分を残していたいとか、絶対にそんなことは考えていなかったと思う。

 

神風特攻隊とかが連想できるように、戦争の時代に宮沢賢治の描いた自己犠牲の文学がプロパガンダとして使われたというのはゾッとする。でも政治のこととか社会情勢とか文学に触れるときすら切り離していられないのはけっこう絶望。話は飛躍するけど日本は息苦しすぎる、同性だろうが異性だろうが事実婚のかたちを認めて結婚なんてしなくたって権利や義務を受けられるようにしたらいいのにねと思う。問題はそれだけではないけれど今回の選挙でいちばん気になったのはそれでした。